南部氏一族とは

甲斐国南部郷(現山梨県南巨摩郡南部町一帯)から糠部に入部した南部氏は、郡中に分散し、それぞれの居城を構えました。

現在の青森県南部町・三戸町一帯を領した三戸南部家のみは例外的に「南部」の姓を名乗り続けたが、それ以外の氏族はそれぞれが居城を構えた地名へと姓を改めました(一戸南部家=「一戸」、七戸南部家=「七戸」、根城南部家=「八戸」)。

ここでは、南部氏一族とこれに関係する国衆らをご紹介します。

「糠部」ってどう読むんですか?  「ヌカノブ」じゃ

南部氏一族

三戸南部家

姓は南部(なんぶ)。53聖寿寺館35三戸城71九戸城16盛岡城を居城とした一族。盛岡南部家ともいう。後の盛岡藩主家。

根城南部家

姓は八戸(はちのへ)。42根城を居城とした一族。中世段階は独立領主格であったが、後に三戸南部家の家臣に転じた。岩手県遠野市に村替し、26鍋倉城に入った。遠野南部家ともいう。

七戸南部家

姓は七戸(しちのへ)。47七戸城を居城とした一族。室町時代に根城南部家から分立した。九戸一揆に際しては九戸方に与し、廃絶した。

一戸南部家

姓は一戸(いちのへ)。23一戸城を居城とした一族。南部氏一族の内紛の結果、天正9年(1581)に嫡家は廃絶した。

南部氏って沢山いたんですね まぁ、親戚みたいな感じじゃ

南部氏一族の家臣

北氏

姓は北(きた)。37剣吉城を居城とした三戸南部家の譜代家臣。後に1花巻城の城代を勤めた。

大浦氏

姓は南部(なんぶ)。31久慈城を居城とした三戸南部家の家臣。津軽に入り49種里城を築く。後裔は南部氏一族に反抗し独立を図り、後に姓を「津軽」に改め、弘前藩主家となる。

野辺地氏

姓は野辺地(のへじ)。48野辺地城を居城とした一族。七戸南部家から分立したと考えられている。

家臣から領主になる人もいるんですね それが戦国時代という時代じゃ

南部氏一族と友好関係にある国衆・名族

九戸氏

姓は九戸(くのへ)。71九戸城を居城とした一族。出自には諸説ある。当初は南部氏一族と友好関係にあったが、後に三戸南部家と反目し九戸一揆を起こす。結果、この戦いに破れ嫡家は廃絶した。

久慈氏

姓は久慈(くじ)。31久慈城を居城とした一族。九戸一揆に際しては九戸方に与し、廃絶した。

浪岡北畠氏

姓は北畠(きたばたけ)。50浪岡城を居城とした名族。北畠顕家の末裔と伝えられる。15世紀中頃、南部氏一族の庇護を受け津軽に入った。天正6年(1578)に大浦氏の攻撃を受け、廃絶した。

九戸さんや久慈さんとも仲良しだったんですね そうなのじゃ

南部氏一族と敵対関係にある国衆・名族

十三湊安藤氏

姓は安藤あるいは安東(あんどう)。南部氏一族と敵対した津軽の国衆。嘉吉2年(1442)に居城である福島城(現青森県五所川原市)を落とされ蝦夷地に逃れた。

斯波氏

姓は斯波(しば)。南部氏一族と敵対した志和の名族。天正16年(1588)に居城である72高水寺城を落とされ、廃絶した。

稗貫氏

姓は稗貫(ひえぬき)。稗貫の国衆で鳥谷崎城(1花巻城)を居城とした。奥羽仕置により領地を失い、これを不服とし何度も蜂起したが、いずれも制圧され嫡家は廃絶した(和賀稗貫一揆・岩崎一揆)。

仲良くすればいいのに 人間は面倒じゃな

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